お知らせ
ハワイアナス・フール

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2008年06月04日

Jorge Vercilo (ジョルジ・ヴェルシーロ)

ここ数年、ブラジルのラジオからいつも聞こえてくるのがジョルジ・ヴェルシーロ。彼の音楽はメロディアスでソウルフル、例えるならば、ちょうどジャヴァンとジョージ・ベンソンの中間にある音だといえるだろうか。

それもそのはず、彼等はヴェルシーロ本人が認める少年時代からのアイドルであり、ミュージシャンになるきっかけであった。ヴェルシーロは1968年リオ・デ・ジャネイロ市ボタフォゴに生まれ、少年の頃に聴いたジャヴァンの「Samurai」に感動し音楽を学び始めたという。

1990年代からリオのライブ・ハウスでギターでの弾き語りをするようになり、93年にアルバム・デビューを果たす。デビュー時にジャヴァンのコピーとも評された彼は、徐々に自分の音楽性を磨いていった。現在では同じくリオ出身で同世代のR&B歌手であるエヂ・モッタ(故チン・マイアの甥でもある)に「ヴェルシーロの曲はハーモニー、リズム、歌詞のどれをとっても一見シンプルに見えて実はよく考えられている、彼には大きな才能を感じる。」と絶賛されるほどである。

2003年末にリリースされた5枚目のアルバム『Livre』は前回のアルバム『Elo』の25万枚セールスを早々と上回り、人気の上昇ぶりを証明した。この作品からは「Monalisa」が大ヒットとなり、その年のラジオオンエアランキングの年間16位に入っている。

ステージの上でも常に自然体で、女性ファンの支持も大きいベルシーロだが、作曲家、演奏家としての彼の評価も上がる一方で、カエターノ・ヴェローゾ、ジョルジ・アラガォンやフラヴィオ・ヴェントゥリーニといった大御所たちに曲を提供したり、アルバム制作時にゲストとして呼ばれることも多い。3枚目の『Leve』(2000)では「Final feliz」でジャヴァンと念願の共演を果たしている。

2007年のサォン・ジョルジの日(4月23日)には、ショー「Coisa de Jorge」を他の3人のジョルジ(ベンジョール、アラガォン、マウチネル)と共にコパカバーナで開き、好評を収めた。この模様はCD、DVDで観ることができる。

ブラジルのMPBシーンにさりげなく出現し、浸透していった才能が、ここ日本でも受け容れられる日は近いであろう。


■ アルバム

1993 - Encontro das águas
1996 - Em Tudo que É Belo
2000 - Leve
2002 - Elo
2003 - Livre


2003 - Perfil


2005 - Signo de Ar
2006 - Jorge Vercilo ao Vivo
2007 - Coisa de Jorge (Jorge Aragão, Jorge Ben Jor, Jorge Mautnerと共演)


2007 - Todos Nós Somos Um


■ 公式サイト
http://www.jorgevercilo.com.br/  

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2008年06月04日

Maria Rita (マリア・ヒタ)

満を持してのデビュー。故エリス・ヘジーナの娘、マリア・ヒタのファースト・アルバムは2003年、多くの人々の期待を集める中、ワーナーからリリースされた。予想を超えた素晴らしい歌姫の出現にブラジル中が大いに沸いたが、彼女にエリス・ヘジーナの面影を求めていた人々にとっては少し違ったお披露目となった。

マリア・ヒタ・マリアーノは1978年、当時のブラジル歌謡界の女王エリス・ヘジーナと名プロデューサー、セーザル・C・マリアーノの間に生れる。1982年に母を亡くし、1994年から2002年までの青春時代をアメリカで過ごす。ブラジル帰国後、初めは出版関係の仕事を目指すも、家族や知り合いの勧めからサンパウロ市にある小さなライブハウスで密かに人前で歌い始める。エリス・ヘジーナが母であることを伏せての活動であったが、母親同様の突出した歌唱力は瞬く間に各レコード会社の注目を集め、デビューへの道を歩むこととなる。

マリア・ヒタのデビューは、ブラジル音楽界で近年例を見ないほど慎重に計画された。彼女がインタビューで「人々が私に母の面影をみるのは自由だが、彼女の偉大な功績を私に引き継がせようとするのは母に対して失礼だ」と述べていることからもわかるように、エリス・ヘジーナ路線を踏襲させられることを嫌い、独自の音楽性を確立しようとしたからである。

待望のデビューアルバム『Maria Rita』では、新旧取り混ぜての鋭い選曲が光るが、ここでもミルトン・ナシメントや人気バンド、ロス・エルマノスのマルセロ・カメロから楽曲を提供されるという別格ぶりをみせている。そして、母親と同じ歌をあえて歌わないという選択をしたにもかかわらず、その歌が母親ゆずりの「魔法のスイング」の魅力にあふれていることは疑いようもなく、それは我々にとって、そしてやはり彼女にとっても喜ぶべき「自然の恵み」であろう。

アルバム『Maria Rita』は本国ブラジルですでに50万枚以上を売り上げたほか、欧州でも大ヒットを記録、ポルトガルでは2003年のトップ10アルバムに入った。また、翌年9月に発表となったラテン・グラミーでも5部門にノミネートされ、ベスト・ニュー・アーティスト賞を含む3部門を受賞している。


■ アルバム


2003: Maria Rita


2005: Segundo


2007: Samba Meu


■ 公式サイト
http://www.maria-rita.com/  

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2007年12月21日

Tribalistas

トリバリスタス~ 新しいブラジル・サウンドの道標


トリバリスタスとはTribe(部族)を由来とし、リオのマリーザ・モンチ、バイーアのカルリーニョス・ブラウン、サンパウロのアルナルド・アントゥーネスの三人が、それぞれの代表する「部族サウンド」を出し合い、新しい音楽的表現に挑んだプロジェクトの名称である。

2002年に発売されたアルバム『Tribalistas』は周知のとおり大成功を収め、国内で百万枚以上、ヨーロッパでは50万枚以上のセールスを記録した。何といっても、今のブラジル音楽を代表する3人の才能による自家製アルバム(アルバムはマリーザ・モンチの自宅のスタジオで録音された)はブラジリアン・ポップの新しい道標を打ち立てたと言っても過言ではない。

マリーザの歌唱力、アルナルドの詩的表現、C.ブラウンのパーカッション、これらの突出した音楽要素をベースに互いのアイデアをぶつけ合い、一見あそび心に富んだ、それでいて完成度の非常に高いレパートリーが出来上がった。

ほとんどアコースティック・サウンドしか用いなかったプロデュースのおかげで、マリーザの美しい声(容姿もしかりなのだが)とC.ブラウンの抑え気味なパーカッションが際立つ。アルナウドの都会的な詩は「 Já Sei Namorar」の"私はもう誰とでも遊べる、ディープ・キスもできる、あとは恋するだけ"のように、ブラジル的な臨場感で一杯だ。

アルバム発表直後、C.ブラウンは2003年カーニバルの準備、マリーザは初子の出産、アルナルドはソロ・アルバムの制作、と「トリバリスタスはアンチ・ムーブメント、結成の次の瞬間に消滅する」の歌詞のとおり、それぞれの「部族」へと帰って行った。

アルバムの収録状況を垣間見ることができるDVD盤『Tribalistas』(東芝EMI)もおもしろい。  

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2007年11月16日

O Rappa



オ・ハッパはブラジル・リオデジャネイロ出身のレゲエ/ロックバンドである。1993年にジャマイカ人レゲエアーティスト、パパ・ウィニーはブラジルに来たが、一緒に演奏するバンドがいなかったため、直ちに4人のメンバーが選ばれた。ネルソン・メイレーリス、マルセロ・ロバート、アレシャンドリ・メネーゼス、マルセロ・ユカである。パパ・ウィニーのショーが終わった後、4人は5人目のメンバーとしてボーカルのファルカォンを加えて、一緒に演奏を続けることを決めた。バンド名O Rappaは、露店商人を取り締まる警察の俗称であるrapaから取られ、区別するためにもう一つのpを加えられた。

オ・ハッパは、ルーツ、ダブ、レゲエ、ラップなどをミックスしたサウンドを作り出し、また社会的インパクトの強い歌詞と常に熱気にあふれるショーで知られている。用いるリズムを正確に定義することは難しく、当初はレゲエとロックとが中心に置かれていたが、やがてサンバ、ファンク、ヒップホップ、サンプラー、MPBなどの要素も取り入れていった。

1994年に彼らはワーナーから1stアルバム『O Rappa』をリリースしたが、大きなヒットにはならなかった。これはネルソン・メイレーリスが参加した唯一のアルバムであり、この後彼は個人的な理由によりバンドから脱退した。2ndアルバム『Rappa Mundi』(96)によって、このバンドはブラジルの音楽シーンに実質的に初めて登場し、ほとんど全曲がヒットとなった。最大のヒット曲の一つ「Pescador de Ilusoes」は最初『Rappa Mundi』に収録され、のちに再び『Acustico MTV』(05)において再演されている。もう一つのヒット曲「Me Deixa」も同じ経緯をたどっている。ジミー・ヘンドリックスのカバー「Hey Joe」もこのアルバムに収録されている。

沈黙の3年のあと、1999年に『Lado B Lado A』をリリース。以前より「強力な」歌詞によってバンドの成熟が示され、ユカが作詞家として高い能力を持っていることも明らかになった。2000年にはオ・ハッパは「聴衆の熱狂と大きな反発」を引き起こした。翌年のRock in Rioではいくつかのアメリカ人バンドの前に演奏順が置かれ、抗議したところ、退場させられることになった。その結果、ブラジルの5バンド(スカンキ、ハイムンドス、ジョタ・クエスチ、シダーヂ・ネグラ、チャーリー・ブラウンJr.)が抗議のためにこのフェスティバルから抜けた。

2001年、ユカは強盗事件に遭遇して銃弾を受け、ユカが担当していたドラムはロバートに、ロバートが担当していたキーボードはその弟マルコス・ロバートに引き継がれた。ユカはこの年の内に復帰し、アルバム『Instinto Coletivo』がリリースされたが、その後ユカはバンドがたどりつつあった新しい方向性に賛同しなかったために排除されたと訴えて脱退したが、バンドはこの事実を否定している。ユカはF.ur.t.o(Frente Urbana de Trabalho Organizados)という、同名の社会プロジェクトの一部を成すバンドを結成した。

2003年にはユカなしでの最初のアルバム『O Silencio q Precede o Esporro』をリリース。正式メンバーではないキーボード奏者、マルセロ・ロバートが主に作曲を担当し、「Reza Vela」、「Rodo Cotidiano」などのヒットを生み出している。カルロス・ポンボと共にはメッセージ性の強い歌詞を持った「O Salto」を作曲した。またリオデジャネイロのオリンポでライブ収録された同名のDVDもリリースされている。

2005年にはMTVブラジルの招きを受けて『Acustico MTV』を録音、DVDにもなったこのアルバムでは「O Que Sobroudo Ceu」、「Rodo Cotidiano」でマリア・ヒタもゲスト参加している。  

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2007年11月09日

Natiruts



ナチフッチスは1996年にブラジリアで結成されたレゲエバンド。メンバーは、アレシャンドリ・カルロ(ギター、ボーカル)、ジュニーニョ(ドラム)、ルイス・マウリシオ(ベース、ボーカル)。

ナチヴスという名前でスタートし、インディーズ時代の「Presente de um Beija-Flor」が4万枚のセールスを記録するなど、ブラジルレゲエにおいてポピュラーな存在として活躍する。

EMIと契約を結んだのち、アルバム『Nativus』(97)の新しいエディションは45万枚のセールスを記録した。結成当初から勢いに乗って成功を獲得していったが、1999年、2ndアルバム発売直前の熱気の中でバンドは名前を変えることを余儀なくされる。リオ・グランヂ・ド・スルのNativoという名前のフォルクローレバンドが、この名前と変化形(Nativos、Nativu)の独占的使用権を主張したためである。Nativusという名前を使うためにはあまりにも多額の使用料を払わなければならなかったため、リーダーのアレシャンドリとメンバーはバンド名を変えざるを得なくなってしまう。

リミーニャのプロデュースによる2ndアルバム『Povo Brasileiro』(99)には、「Proteja-se e Lute(戦いを守れ)」やタイトル曲でもある「Povo Brasileiro(ブラジル国民)」など、政治的メッセージ性の強い曲が多く含まれ、ルーツレゲエの本質が現れる作品となった。アルバムのジャケットにはバンド名は記載されず、バンドのシンボルであるラスタ人形だけがデザインされている。バンドとEMIはファンからバンド名を募集するコンクールまで行なったが、最終的にはメンバーのアイディアでナチフッツに改名する。

2001年には3rdアルバム『Verbalize』をリリース。アレシャンドリ(ボーカル)、イザベラ(バックボーカル)、ルイス・マウリシオ(ベース、バックボーカル)、キコ(ギター)、ブルーノ(パーカッション)、ジュニーニョ(ドラム)という編成で、バンドはブラジルツアーを敢行し、一方でブラジルで行われる主要なレゲエ祭への参加は欠かさなかった。

2004年に『Quatro』をリリース、2005年にはレーベルから独立した形で『Nossa Missao』をレコーディングした。2006年には活動10周年を記念して初のDVD『Reggae Power』が録画され、同名のCDもリリースされ、タイトルソング「Natiruts Reggae Power」はブラジルのエアプレイチャートHot 100 Brazilで1位を獲得した。
  

Posted by pokebras at 15:59Comments(0)TrackBack(0)rap, funk, soul

2007年11月08日

月間シングルランキング 2007.10



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ロック3バンドがトップを制覇!

01.AQUI
┗CAPITAL INICIAL

02.TROPA DE ELITE
┗TIHUANA

03.PONTES INDESTRUTIVEIS
┗CHARLIE BROWN JR.

04.PRA NAO MORRER DE AMOR
┗BRUNO & MARRONE

05.TA PERDOADO
┗MARIA RITA

06.NOSSO FILME
┗INIMIGOS DA HP

07.CARRAPATO
┗PERLLA

08.EU VOU SEGUIR
┗MARINA ELALI

09.ABAFA O CASO
┗BRUNO & MARRONE

10.POLO
┗FRESNO

11.NAO TO PRONTA PRA PERDOAR
┗WANESSA CAMARGO

12.SABER VOAR
┗CHIMARRUTS

13.QUAL E A CARA DO LADRAO?
┗PLANTA & RAIZ

14.COISA DE DEUS
┗RICK & RENNER

15.NATIRUTS REGGAE POWER
┗NATIRUTS

16.NOSSA MUSICA
┗CPM 22

17.LUA CHEIA/FICA DOIDA
┗PAPAS DA LINGUA

18.PEQUENAS CAIXAS
┗LEELA

19.SEUS PASSOS
┗SKANK

20.PULSOS
┗PITTY
  

Posted by pokebras at 19:03Comments(0)TrackBack(0)月間シングル

2007年11月02日

NX Zero



NXゼロは2001年にサンパウロで結成されたメロコアバンド。メンバーは、ヂエゴ(ボーカル)、レアンドロ(ギター、バックボーカル)、フィリーピ(ギター)、ダニエル(ドラム)、コンハード(ベース)の5人。

インディーズ時代はフレズノ、アチーン、フォーファンなどと同じようにサンパウロのアンダーグラウンドシーンで活躍する。当初はメディア受けするものではなかったものの、2005年以降、バンドの知名度が次第に増すようになると、2006年にはブラジルのラジオで上位を占めるようになる。インディーズバンドとして初めて音楽番組『Disk MTV』で一位を獲得したのもNXゼロだった。その後バンドはCPM22やアチーンなどが所属するレーベル、ユニヴァーサル・ミュージックとの契約を獲得する。

メジャーバンドとしての最初のアルバム『NX Zero』(06)からの1stシングル「Alem de Mim」は大ヒットし、全国区の注目を集め、さらにPremio Multishow de Musica Brasileiraでは新人賞を獲得する。最近ではEspecial MTV Estudio Coca Colaでレゲエアーティストのアルマンヂーニョと共にステージに上がり、互いのレパートリーをツインボーカルで演奏した。

2007年、ブラジルのロックバンド5組(NXゼロ、アチーン、モッピトッピ、フレズノ、フォーファン)がそれぞれのヒット曲を演奏する「MTV ao Vivo 5 Bandas de Rock」に出演、バンドの3rdシングル「Mais e Mais」のライブビデオクリップはDVDに収録されている。

2ndシングル「Razoes e Emocoes」は爆発的にヒットを記録し、Video Music Brasil 2007において年間最優秀曲、そしてNXゼロは年間最優秀アーティストに選ばれた。  

Posted by pokebras at 16:53Comments(0)TrackBack(0)pop, rock

2007年11月02日

MC Leozinho



MCレオジーニョ、本名レオナルド・フレイタス・マンジェーリ・ヂ・ブリートは1977年5月6日リオデジャネイロ州ニテロイ生まれのファンキ歌手・作曲家。

レオジーニョが最初に音楽に触れたのは、10歳のとき祖父からギターをプレゼントされたのがきっかけだった。人生で最初の自作曲「Verao Muito Louco」は、ビーチに近い家で数日を過ごし、ギターを弾いていると自然に生まれてきたという。その後、音楽を学びながら曲作りを続け、17歳から地元のバイリ(ファンキパーティー)に通うようになり、アーティストとしてデビューするチャンスをうかがっていたという。

ファンキ歌手を本気で志すようになったのは、ペット・ショップ・ボーイズやテクノトロニックスなどのグループとの出会いによってだったが、レオジーニョの独自性はそのリズムを幼い頃から親しんできたギターで再現しようとしたところにあった。

そして、DJマルボロとの出会いがレオジーニョにプロになるきっかけとなる。最初のヒット曲「 Ela So Pensa Em Beijar」は、リオ生まれのファンキ・カリオカを世界に知らしめたDJマルボロプロデュースによるコンピレーションアルバム『Bem Funk』(06)に収録された。同年、「Ela So Pensa em Beijar」を収録した同名のアルバムをリリース。ほかに「 O Show」がノヴェーラ『Cobras e Lagartos』のサントラに選ばれた。

2007年にはジェトゥーリオ・コルテスによってリリースされたジョーヴェン・グアルダのクラシックナンバー、「 Negro Gato Negro Gato Negro Gato 」のファンキ・ヴァージョンがノヴェーラ『Duas Caras』(07)のサントラに曲が採用されることとなった。

リオのパン屋でサンドイッチ係として働いていたこともあるレオジーニョは、チャレンジしている感覚が好きだと語っている。「パン屋でもそうだった。鉄板の上で3分間にフィレのサンドイッチを5個作らなきゃならないっていうふうにね。俺は自分が出会うもの全てをチャレンジとして受け止めてきたんだよ」。

デビューアルバムのレコーディングのためにスタジオに4ヵ月半こもりきりになり、今やスターとして次第にプライベートの時間が少なくなる生活を送っているが、レオジーニョはこう断言している。「アーティストにとって最高の財産はファンだ。俺のバイリを満員にしてくれるのは彼らだからね」。  

Posted by pokebras at 16:35Comments(0)TrackBack(0)rap, funk, soul

2007年10月19日

Negra Li



ネグラ・リとして知られているリリアーニ・ヂ・カルヴァーリョは1979年サンパウロ生まれの女性ラッパーである。サンパウロ北部の貧しいコミュニティであるヴィラ・ブラジランヂアに住み、教会でエヴァンジェリスト派の賛美歌を歌っていた子供の頃から音楽が好きだった。ゴスペルの才能を持っていたが、歌手になるつもりはなく、モデルになりたかったという。

10代の頃からはホイットニー・ヒューストン、ローリン・ヒル、メアリー・J・ブライジを愛聴し、ブラックミュージックに傾倒、16歳でラップに関心を抱くようになる。サンパウロ大学のコーラスでは独唱者を務め、同じ時期にピアノの学校にも通っていた。

ネグラ・リーはラップグループRZOでデビューしたが、その後ラッパー、エリアォンのパートナーとなって『Gurreiro, Gurreira』(04)をリリースした。

その後アルバム『Negra Livre』(06)をでソロデビューを果たし、マリーザ・モンチ、ナンド・ヘイス、カエターノ・ヴェローゾなど、ラップの世界の外の作曲者によるレパートリーを積極的に取り入れたこのアルバムは、ネグラ・リの世界を大きく拡げた。

2006年には『Antonia』の映画版とTV版でレイラ・モレーノ、ケリナー、シンヂィ・メンヂスとともに出演し、注目を集め、翌年には映画に登場するラップグループ、アントニアの名前で『Antonia』のサウンドトラックをリリースしている。

成功を収めた現在でも兄弟とともにヴィラ・ブラジランヂアにある母の家に住んでおり、都合がつくときには家族とともにプロテスタント派の教会に通っている。美しい声と知的なセンスが高く評価されているネグラ・リは、ブラジルのラップ界におけるミューズの一人とされているほか、ブラックビューティーの代表として黒人女性向け雑誌「Raca」の表紙を飾るなど、ファッションリーダーとしても注目されている。  

Posted by pokebras at 18:27Comments(0)TrackBack(0)rap, funk, soul

2007年10月15日

月間シングルランキング 2007. 09



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先月に続いてBeMがNo.1をキープ!
01.PRA NAO MORRER DE AMOR
┗BRUNO & MARRONE

02.AQUI
┗CAPITAL INICIAL

03.NAO TO PRONTA PRA PERDOAR
┗WANESSA CAMARGO

04.EU VOU SEGUIR
┗MARINA ELALI

05.NATIRUTS REGGAE POWER
┗NATIRUTS

06.FADA
┗VICTOR & LEO

07.PONTES INDESTRUTIVEIS
┗CHARLIE BROWN JR.

08.LUA CHEIA/FICA DOIDA
┗PAPAS DA LINGUA

09.POLO
┗FRESNO

10.ABRI OS OLHOS
┗SANDY & JUNIOR

11.PULSOS
┗PITTY

12.ESPIRAIS
┗MARJORIE ESTIANO

13.QUAL E A CARA DO LADRAO?
┗PLANTA & RAIZ

14.DEPOIS DO AMOR
┗PERLLA & BELO

15.RAZOES E EMOCOES
┗NX ZERO

16.UMA FESTA TODO DIA
┗LEONARDO

17.LAMA
┗LUXURIA

18.OBJETO DE DESEJO
┗BANDA CALYPSO

19.BOA SORTE
┗VANESSA DA MATA & BEN HARPER

20.NOSSA HISTORIA
┗SAMPA CREW
  

Posted by pokebras at 12:59Comments(0)TrackBack(0)月間シングル

2007年10月15日

Wanessa Camargo




ヴァネッサ・カマルゴ(1982年12月28日ゴイアニア生まれ)はブラジルの女性ポップ歌手で、セルタネージョデュオ、ゼゼ・ヂ・カマルゴ&ルシアーノのゼゼ・ヂ・カマルゴの娘。映画やTVシリーズにも女優として出演している。

影響を受けた歌手としてマドンナ、クリスティーナ・アギレラ、マライア・キャリーの名前を挙げている他、ジャニス・ジョップリンが好きだとも言っている。デビューアルバム『Wanessa Camargo』は2000年に、また同じタイトルのアルバムがさらに2枚、2001年と2002年にリリースされた。2004年には『Transparente Ao Vivo』というCDとDVDをリリースした。

代表作には「O Amor Nao Deixa」、「Apaixonada Por Voce」、「Sem Quere」、「Metade De Mim」、「Amor, Amor」、「Nao Resisto a Nos Dois」などがある。

2005年の5thアルバム『W』ではロマンチックラテン、ロックバラード、ダンスホール、レゲトンなどのスタイルに挑戦している。またこの年にはレシーフェで開催されたOi Recife Popに参加して高い評価を得るとともに新しいファンを獲得している。ブラジルでは既に300万枚以上の売上げを記録しており、Premio Multishow de Musica Brasileiraでは新人賞を受賞している。そのほか、エルバ・ハマーリョ、ヒタ・リー、ゼカ・パゴヂーニョ、ダニエラ・メルクリ、またイタリア人歌手エロス・ラマゾッティらとデュエットもしている。

躍進の年となった2006年には、ノヴェーラ『Bang Bang』のテーマ曲「 Nao Resisto a Nos Dois Nao Resisto a Nos Dois Nao Resisto a Nos Dois 」の大ヒットによって、また女優マリーリア・ペーラが監修したツアー『W in Tour 2006 - Era Uma Vez...』の大成功によって、音楽界での地位を確固たるものとする。2007年にはベロ・オリゾンチ、アングラ・ドス・ヘイス、フロリアノーポリス、ブラジリアやノルデスチの諸都市を巡るツアー『Pai e Filha』という形で、父ゼゼ・ヂ・カマルゴと共演するという長いあいだの夢を実現した。

2007年5月26日には会社員マルクス・ブアイスと結婚し、その結婚式はメディアに大々的に取り上げられた。直近の予定は6thアルバムと新しいDVDのリリースである。2007年にはまた6月に始まる国内ツアーと、下半期に始まる世界ツアーとが予定されている。  

Posted by pokebras at 12:44Comments(0)TrackBack(0)pop, rock

2007年10月15日

Kelly Key



ケリー・キー、本名ケリー・ヂ・アルメイダ・アフォンソは1983年3月3日リオデジャネイロ生まれのポップシンガー。アーティストネームは、写真家シコ・アウヂィとのセッションで「Kelly」の「ll」を取れば英語の「key」になり、それが「成功の鍵」を意味すると言われたことに由来している。

モデルやTV司会者として活動していたケリー・キーが歌手としてのキャリアをスタートしたのは、2000年、歌手のラチーノと付き合っていたときで、デビューアルバム『Kelly Key』(01)の楽曲は彼が書いたという噂があるが、ラチーノ自身は否定している。2000年にはラチーノとのあいだにできた最初の娘スザンナも生まれている。

2002年にはPlayboy誌の表紙を飾ったが、この号が今でも高値で取引されていることからも、彼女の人気がうかがわれるだろう。

2003年には2ndアルバム『Desse Meu Jeito』をリリース。2004年には現在の夫であるミコ・フレイタスと結婚。以後も『Kelly Key ao Vivo』(04)、『Kelly Key』(05)、『Por que Nao?』(06)といったアルバムを次々とリリースしている。この最新作ではファンキのリズムを取り入れるなど、そのポップ世界を広げようとする試みが見て取れる。

2005年にはミコとのあいだに息子ジャイーミ・ヴィトールが生まれている。二児の母ながら、ピンクと紫が好き、ハロー・キティの大ファン、など夢見がちな少女らしい面を残しており、サンヂィやペルラと並んで、ブラジルのティーンエイジャーの憧れの的であり続けている。
  

Posted by pokebras at 12:40Comments(0)TrackBack(0)pop, rock

2007年10月10日

Marjorie Estiano


マージョリー・エスチアーノ、本名マージョリー・ヂーアス・ヂ・オリヴェイラ(1982年3月8日、クリチーバ生まれ)は、ブラジルの女優・歌手。エスチアーノという芸名は父方の祖父の苗字から取られている。

クリチーバの舞台芸術大学で技術コースを卒業したあと、サンパウロへ移り、音楽学部で2年間、広告学部でさらに1年間学んだ。そのあいだにいくつかの演劇やテレビコマーシャルにも出演している。

2003年、TVグローボのタレント養成スクール(Oficina de Atores)の入学試験に合格。生活拠点をリオデジャネイロへと移し、人気ノヴェーラ『Malhacao』(04/05)のレギュラーキャストを射止める。ノヴェーラ中のバンド、ヴァガバンダのベーシスト、ナターシャ役を演じ、広く視聴者に知られることになった。

『Malhacao』以後、マージョリーはデモ音源を録音して音楽レーベルに渡すことを始め、ユニバーサル・ミュージックからCDデビューすることが決まった。デビューアルバム『Marjorie Estiano』(05)で素晴らしい歌唱力を示し、音楽が単なる副業でないことをはっきりと証明した。このアルバムから「VOCE SEMPRE SERA」や「POR MAIS QUE EU TENTE 」などのヒットが生まれている。

彼女の女優としての直近の仕事は、グローボのノヴェーラ『Paginas da Vida』(06/07)でのマリーナ役である。2007年10月スタート予定のノヴェーラ『Duas Caras』では初主演することになっており、役作りのために髪を赤く染めている。

また2007年には2ndアルバム『Flores, Amores, e Blablabla』をリリース。「TATUAGEM」が『Malhacao』(07)の挿入歌として使われた他、「ESPIRAIS」などがヒットがしている。  

Posted by pokebras at 16:34Comments(0)TrackBack(0)アーティスト

2007年09月21日

Banda Calypso

パラ州出身の大人気ブレーガポップバンド、バンダ・カリプソ!



バンダ・カリプソは1999年にベレンでジョエルマ(ボーカルとダンス)とシンビーニャ(ギター)の二人によって結成されたバンド。最初の活動領域はブラジル北部・北東部に限られていたが、今日では全国区の人気を誇り、アメリカやヨーロッパへのツアーによってそのキャリアを確たるものにしつつある。

バンダ・カリプソは、カリブ南部に起源を持つカリプソのリズムを、パラー州特有のリズムに融合し、ブラジルに広めた。スカが彼らに大きな影響を与えている、と考える人も多い。カリブのカリプソに始まり、ランバダを通り、メレンゲへと至るスタイルのミックスは、彼らが受けたさまざまな音楽的影響を示している。バンダ・カリプソが確立した新しいスタイルは「ブレーガ・ポッピ(Brega Pop)」と呼ばれている。きらめく飾りのちりばめられた派手な服装や、すでにジョエルマのトレードマークになっているブーツなどのバンドのヴィジュアルも同様に、彼らから切り離すことのできない特徴になっている。

ボーカリストのジョエルマは19歳で歌い始め、パラー州のアルメイリン市のバーでショーを行っていた。彼女がベレンの音楽業界で知られるようになったのは、同市のFeira de Arte e Culturaに参加してからだった。ボーカリストを探していたバンダ・ファゼンド・アルチに見初められ、ジョエルマはこのバンドで6年間活動することとなる。

その後の1999年、シンビーニャとバンダ・カリプソを結成すると、ジョエルマのキャリアに転機が訪れる。その甘い歌声がパラー州の音楽シーンにおいて注目されていたジョエルマ・メンヂスは、バンドのボーカルを担うばかりでなく、目新しい振り付けも任されることになり、次第に若い聴衆を惹きつけていった。

バンドメンバーであり、人生のパートナーでもあるシンビーニャは12歳で人気アーティストのコピーをしながら音楽活動を始める。「Showbizz」誌によれば、この地域の「どこにでも現れる一体感」があったというが、謙虚なシンビーニャは自分をそれほど重要な存在だとは考えていないと語る。「この新しくて革新的なリズムは俺にも説明できないものなんだ。俺は録音を始めて、自分がしたいと思うことをやっていくよ。真ん中にサンバを入れてみて、うまくいくなら入れる。6種類のリズムパターンを持った曲を作ったことさえあるよ。天国で神様が命令を下していて、地上で俺が演奏していく。精霊のなせる業だよ。この精霊は人類学者のエルマーノ・ヴィアーナが発見したもので、彼はブラジル音楽のさまざまなスタイルをマッピングするという目的を持ったプロジェクト「Musica do Brasil」を発案したんだ。彼はブラジル音楽を記録するために2年間でブラジルを8万キロ動き回ったんだよ」。

現在までに10枚以上のアルバムをリリースしており、その多くは10万枚以上売れている。最新アルバムはSomlivreから出た『Banda Calypso - 100% Calypso』(07)で、同名のDVDも発売される予定。  

Posted by pokebras at 12:37Comments(0)TrackBack(0)forró, ritmo Brasil

2007年09月14日

Marcelo D2

マルセロD2~サンバとヒップホップで独自のスタイルを確立



マルセロ・マルドナード・ゴメス・ペイショット、通称マルセロD2(マルセロ・デー・ドイス)は、リオデジャネイロ出身のラッパーであり、プラネット・ヘンプの元ヴォーカリスト。「D2」とはドラッグ使用者のあいだの用語で「マリファナを吸う」を意味する。

リオデジャネイロのサン・クリストーヴァンで生まれ、マリア・ダ・グラッサ、アンダライーで育ったマルセロD2は常にサンバ、ファンクやブラックミュージックを愛してきた。若い頃は屋台商や露店商だったが、すでに亡くなっている友人スカンキの薦めによってショービズ界に入った。彼の反抗的なリリックはスカンキの考え方を反映しているという。

友人スカンキを1994年6月にエイズで失ったことが、D2の人生とキャリアに大きな影響を与え、彼はHIVウィルスを所持する子供たちを支援するためのレーベルPositivoを創設した。プラネット・ヘンプの1stアルバム『Usuario』(95)は彼へのオマージュ作品となり、30万枚を売った。 2ndアルバム『Os Caes Ladram mas a Caravana nao Para』ではさらに35万枚セールスを記録した。

1998年、1stアルバム『Eu Tiro E Onda』(リオの俗語で「おれは強い」「おれは何でもできる」という意味)をリリース。自宅のスタジオで録音され、ニューヨークとロサンゼルスでミックスされたこのアルバムは、革新的で、ブラック・エイリアン&スピード、ゼー・ゴンザレス、DJナッツ、Bネガォンといったリオとサンパウロのラップのビッグネームが名を連ねていたため、聴衆やサンパウロのラップムーブメントに好評を博した。

ソロとしての代表作にはBネガォン、スピード、ジャクソン、ブラック・エイリアン、DJホドリゲス、ファルカォンといったリオのラップのパイオニアたちによって組まれた「ヘンプ・ファミリー」が参加した「O Imperio Contra-Ataca」や彼を有名にした曲で、子供の頃のことについて歌い、MTVのショーでのライブでもたびたび歌われた「1967」、「A Maldicao do Samba」、「Qual E」、実の息子も参加した「Loadeando」などである。

早口でファニーなフロー、そして伝統的なサンバをラップと融合し人気を集めた。自身にとってのアイドルであるタイーヂとDJフンの「Assim Caminha A Humanidade」や、コメディー番組『Casseta & Planeta』のコメディアンたちによるサントラ『A Taca do Mundo E Nossa』にも参加した。子供たちからの尊敬も集め、ブラジルの最も偉大なラッパーの一人として知られている。

2003年にリリースされた2ndアルバム『A Procura da Batida Perfeita』は、サンパウロ芸術批評家協会による「年間ベストアルバム」に選ばれるなど、さまざまな賞を受賞した。

2005年、プラネット・ヘンプが解散を発表し、マルセロD2は完全にソロとしての活動を始める。翌年5月には3rdアルバム『Meu Samba E Assim』をリリース、批評家からも好意的に受け入れられたこのアルバムは、ラップとサンバの融合の方向性をさらに押し進め、アルシオーニ、ゼカ・パゴヂーニョ、アルリンド・クルスなどのスペシャルゲストも迎えている。
  

Posted by pokebras at 18:03Comments(0)TrackBack(0)rap, funk, soul

2007年09月12日

パト・フー インタビュー!


(写真:POKEBRAS)



新作『Daqui Pro Futuro』、さらにボーカルのフェルナンダがソロとしてリリースするナラ・レオンのカヴァーアルバム(タイトル未定)の2作をひっさげてパト・フーが来日!

フェルナンダは終始リラックスした様子で、時折勉強中だという日本語を披露してくれました。

パト・フーのギタリストでもあり夫のジョンもともに来日。二人によるアコースティックライブは日本人ファンのみならず、日本で暮らしているブラジル人にとっても貴重なライブとなりました(→ライブレポート)。


来日は2回目ということですが?

F(Fernanda):今回はパト・フーとして来れて音楽活動ができてとてもうれしいわ。ロナウド・フラガ、大洋レコードでの新作リリースのおかげね。前回は観光だけだったから。日本語が話せなくて悲しかったし…あれから奮起して今は日本語の勉強をしているの!今回はブラジルで勉強した日本語を使うこともできるし、とても満足しているわ。


今回の新作について教えてください。「daqui pro futuro」ではヴィンテージ楽器をたくさん使っているようですが…

J(John):使ったシンセ自体は最新のものだよ。前はエレクトロニカ音楽を作るためにシンセを使っていたけど、今はどんどん使い方が変わってきているね。最近は古い感じの曲を作るために最新の機材を使うっていう面白い現象が起こっているんだ。


「Made in Japao」のサビの部分は「Mana-mana」のカヴァーです。その当時、日本でも「Mana-mana」は渋谷で流行っていましたが、あなたたちが1999年に「Mana-mana」を取り上げたのはどうしてですか?

F:あの曲はTVの人形劇のテーマソングだったのよ。わたしたちは頭に焼き付いて離れないようなサビにしたかったの。あの曲がリリースされて、ブラジル人が日本語の歌詞を真似して歌ってくれたわ。イタリアでもすごくヒットして、当時のヨーロッパのMTVでもたくさんPVが流れたのよ。


日本のアーティストでは誰が好きですか?

F:ピチカートファイブが昔から大好きなの!今回の来日で少しコネクションができそうだから、ぜひ一緒にレコーディングしてみたいわ!
あとはコーネリアスとか、少年ナイフはピチカートファイブより前から聴いていたわ。最近はブリリアントグリーンやフジファブリックもよく聴いているわ。昔はCDを見てもアーティスト名が読めなかったけど、最近ではひらがな・カタカナが読めるようになったからもっとたくさんのアーティストについて勉強できるわね!


今回参加したBrasil Fashon Nowについて教えてください。デザイナーのロナウド・フラガもミネイロですが彼とは昔から知り合いだったのですか?

F:もう10年くらいの付き合いになるわ。1998年に"Antes que Seja Tarde"のビデオクリップを一緒に制作したのがはじまりで、その後は彼のショーで色んな曲を歌ったの。今回はソロ・アルバムとしてわたしがナラ・レオンのカバーアルバムをリリースすることになって、ロナウドがショーで歌ってほしいといってくれたのはその後よ。


個人的にはどんなブランドを愛用していますか?お気に入りのブランドは?

F:ひいき目なしでロナウドの服は大好きなの。持っている洋服の半分以上は彼がデザインしたものよ。一番のお気に入りね。あとは日本にも直営店がオープンしたばかりのアレシャンドレ・ヘルコビッチの服も大好き。あとはMarcelo Sommer、Coven、Ave Mariaなどは気に入ってよく着ているわ。


最後にPOKEBRASユーザーのみなさんにメッセージをお願いします。

コンニチハ!フェルナンダです! 日本のみなさんにもブラジルの音楽を通じて文化を理解してもらいたいと思っています。これからどうぞよろしくね!


どうもありがとうございました!

インタビュー:POKEBRAS 宮下麻未
取材協力:有限会社大洋レコード、麻生雅人、Willie Whooper


●お知らせ●

※インタビューの模様がTV・ラジオでオンエアされます!
[TV]
「Lucy's Room」
放送局:MUSIC AIR
http://www.musicair.co.jp/program/lucy/
10月放送予定

[RADIO]
「MUSIC FILE:Radio Brisa Brasileira」
放送局:STARdigio
http://www.stardigio.com/station400/
10月18日(木)22:00-23:00


→PATO FU 『Daqui Pro Futuro』リリース情報はこちら
  

Posted by pokebras at 13:20Comments(0)TrackBack(0)インタビュー

2007年09月11日

Vinicius de Moraes

ヴィニシウス・ヂ・モラエス ~ 愛の詩人~

愛をテーマに詩を書き続け、独自の世界を築いた詩人ヴィニシウス・ヂ・モラエス。ボサ・ノヴァが特別な音楽として称賛されるのはトム・ジョビンのメロディー、ジョアン・ジルベルトのリズム&スタイル、そしてヴィニシウスの歌詞によって表現された愛と美のロマンス、この三要素によるところが大きいと言われる。

1913年、リオデジャイロ生まれ。文化的な家庭に育ったヴィニシウスは10代の頃から詩を書き、曲を作っていた。20歳で最初の詩集を発表してから、生涯十数冊の詩集本を出版し、ブラジルの偉大なる詩人カルロス・ドゥルモン・ヂ・アンドラーヂやチリのパブロ・ネルーダらとも親交が深かった。

類い希なるに文学的才能に加え、外国語にも堪能だったヴィニシウスは、ブラジルの大学で文学部と法学部を卒業。その5年後にはイギリスのオックスフォード大学に留学し英語を学んだ。1943年、ブラジル外務省に入省し、外交官を務めながら音楽活動を続け、さらに40年代からは映画批評家・脚本家としても活躍した。しかし1964年、左翼的なポリシーを持つということで、「アルコール中毒」を表向きの理由に解雇された。プライベートではプレイボーイとしても有名で、生涯で実に9度の結婚を経験している。

50年代に入ると初のサンバ「Quando Tu Passas por Mim」を作曲。54年にはのちに『黒いオルフェ』(59)として映画化された戯作『Orfeu da Conceição』を執筆。56年初演のこの芝居の音楽担当を務めたのは、当時まだ27歳の若きトム・ジョビンであった。二人は劇中の挿入歌として「Lamento do Morro」、「Se Todos Fossem Iguais a Você」などを生み出している。

その後もヴィニシウスとジョビンは共作を手掛け、58年にはジョアン・ジルベルトが演奏に加わった「Chega de Saudade」を録音。ボサノヴァの誕生の瞬間とされている。
続けて、「A felicidade」、「O Nosso Amor」、「Eu Sei que Vou Te Amar」、「Agua de Beber」、「イパネマの娘」、「So Danco Samba」、「Insensatez」、「Ela É Carioca」、「Samba do Avião」、「Se Todos Fossem Iguais a Você 」などの永遠の名曲を世に送り出す。

60年代に入ると、ヴィニシウスはさらに多くの作曲家に詩を提供するようになる。名ギタリスト、バーデン・パウエルとは「Berimbau」、「Canto de Ossanha」、「Samba em Prelúdio」、「Tempo Feliz」、社会派作曲家カルロス・リラとは「Coisa Mais Linda」、「Sabe Você」、「Primavera」、「Minha Namorada」、バイーアの大御所、ドリヴァル・カイミとは「Das Rosas」、「Saudade da Bahia」、「Historia de Pescadores」、エドゥ・ロボとは「Arrastão」、「Deus Lhe Pague」などの楽曲が有名でいずれも後世に伝えられる名曲となっている。晩年のピシンギーニャやアリ・バホーゾたちとも仕事をしている。

70年代には最後のパートナーとなるトッキーニョとコンビを結成。二人で「Tarde em Itapoã」、「Regra Três」、「Maria Vai Com as Outras」、「A Tonga da Mironga do Kabulete」などの名曲を含めて計20枚のアルバムをリリースした。

1979年に脳溢血に倒れたヴィニシウスは翌年に死去。享年67歳であった。ヴィニシウス本人の歌や、詩の朗読などが収録されたアルバムはには『Vinicius Poesia e Canção』(66)、『Antologia Poética』(77)などがある。彼の死後も数多くの復刻盤や、未発表音源集、トリビュート・アルバムなどがリリースが今も続いている。

2005年には、ヴィニシウスの生涯を綴ったドキュメンタリー映画『Vinicius』がブラジルで上映され反響を呼んだ。

ヴィニシウス・ヂ・モラエスはブラジル文化が世界で脚光を浴びはじめた時代に活躍した偉大なる才能であったといえよう。

  

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2007年09月11日

Dorival Caymmi

ドリヴァル・カイミ ~ バイーアの象徴~

バイーアの神々、海、青い空、愛。それらのすべてを表現した、ドリヴァル・カイミ。作曲家として、そして歌手として、純朴でありながらモダンといわれるドリヴァルのサウンドはブラジル音楽の礎の一つであり、同じバイーア出身のジョアン・ジルベルトやカエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、ガル・コスタをはじめ、ブラジル音楽の全てに影響を与えてきた。

1914年、サルヴァドール生まれ。少年のころから独学でギターを覚え、作曲を始める。22才のとき地元のカーニヴァルソングのコンクールに入賞。24才で当時ブラジルの首都であったリオデジャネイロに向かう。

リオに着くと、大スター、カルメン・ミランダの映画『Banana da Terra』(1939)に「O Que É Que A Baiana Tem?」を提供するチャンスに恵まれ、大ヒットを収める。これをきっかけにカルメンはハリウッド映画界に進出することとなる。

ドリヴァルは引き続き、当時の大歌手ルシオ・アルベスやディック・ファルネイなどに「Não Tem Solução」、「Sábado em Copacabana」、「Nunca Mais」、「Marina」といった名曲を提供していく。50年代に入っても「Rainha do Mar」、「Promessa de Pescador」、「Dora」、「Peguei um Ita no Norte」などを作り続ける。

1954年に最初のソロLP『Canções Praieiras』を録音。ここでも「A Lenda do Abaete」、「Saudade de Itapoã」、「É Doce Morrer no Mar」、「O Mar」といった名曲を温かみのある歌声で演じた。

50年代後半には、ジョアン・ジルベルトは崇拝するドリヴァルの「Rosa Morena」、「Doralice」、「Samba de Minha Terra」、「Saudade da Bahia」などをボッサビートで演じ、永遠のボサノヴァ・クラシックたらしめた。

64年、アメリカの国民的ポップスター、アンディ・ウィリアムズがドリヴァルの「Das Rosas」を歌って大ヒット。翌年、ドリヴァルはアメリカツアーを行い、アルバム『Caymmi (Kai-ee-me) and The Girls From Bahia』(65)もリリースされた。

70年代に入ると、自ら祭司を務めるアフリカ起源の宗教カンドンブレにまつわる「Oraçã Pra Mã Menininha」、「Menininha do Gantois」、「Sargaço Mar」などの曲が注目を集める。また、75年のテレビドラマ『Gabriela』の主題歌として作曲した「Modinha para Gabriela」はガル・コスタが歌って爆発的なヒットを収めた。

1984年にはフランス芸術文化勲章受章。同年のリオのカーニヴァルでは、マンゲイラがドリヴァルをテーマとしたパレードで優勝している。

2000年にリリースされた7枚組みのCDボックス『Caymmi Amor e Mar』はドリヴァルの初期の音源(78回転、10インチアルバムなど)および50~80年代に録音されて廃盤となっていたLPの多くを収め、ファン垂涎のアイテムとなった。

ドリヴァルの子供たちも音楽の道を歩み、ナナ・カイミ、ドリ・カイミ、ダニーロ・カイミはMPBを代表するアーティストとなった。2004年には、三人が父の90才の誕生日を祝い、本人を客席に招いてライブを行い、『Para Caymmi, de Nana, Dori e Danilo - 90 anos』(04)としてリリースされた。

「ドリヴァルの音楽はバイーアの海のように果てしなく無限だ」― 彼を敬愛してやまなかったアントニオ・カルロス・ジョビンが残した言葉である。

  

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2007年09月11日

Toquinho

トッキーニョ~ 声とギターの楽しい融合

トッキーニョ、本名アントニオ・ペッチ・フィーリョは優れた歌唱力、ギターテクニックそして作曲センスが揃った完全なアーティスト。なんといっても、水の滴のように透明感のあるギターサウンドと優しさのこもった歌声は、日本でも多くのファンを魅了している。

1946年、サンパウロに生まれたトッキーニョは少年期からギターが好きで、14歳から本格的にポピュラー、クラシック・ギターを習い始める。その後、音楽理論やアレンジも勉強した彼は、ブラジリアン・ギターの巨匠パウリーニョ・ノゲイラに師事。バーデン・パウエルの影響も強く受けたという。

60年代のボサノヴァ全盛期には、当時、人気を博していたエリス・ヘジーナ、ジンボ・トリオ、マルコス・ヴァーリや、以降、盟友となるシコ・ブアルキらのバックバンドの一員としてステージに上がる。ほかにも舞台劇などの音楽を手がけるなどしながら、数々の音楽フェスティバルに自作曲をエントリーしていく。

63年にボサノヴァの定番曲を歌った1stシングルを、66年にギターのインストゥルメンタル曲を収めた1stアルバム『O Violão do Toquinho』をリリース。69年には、シコ・ブアルキの"自主亡命"に付き添ってイタリアに半年ほど滞在。シコと二人で行った数々のライブは高い評価を得る。イタリア滞在中、ボサノウァの詩人ウィニシウス・ヂ・モラエスの曲をイタリア語で歌ったアルバム『La Vita Amico E L'Arte dell'incontro』(69)に参加。これをきっかけに、帰国後、ヴィニシウス本人から共演の誘いを受けることとなる。

ボサノヴァ・ブームが去ったあと、トッキーニョはヴィニシウス・ヂ・モラエスとパートナーを組み、MPB史上、最も名高いコンビが誕生する。二人は、"ポエータ(詩人)"ヴィニシウスが1980年にこの世を去るまでの11年間に渡り、120にも上る楽曲を生み出し、1000回ものライブを行った。70年代のテレビドラマのサントラ(『O Bem Amado』(73)が最も有名)でも数々のヒット曲を世に送りだした。

二人が作った名曲には、水彩画をイメージし、今でもトッキーニョのベストソングとされる「Aquarela 」、バイーアにある魅惑のビーチを歌った「Tarde em Itapoã (イタポアンの午後)」、浮気による恋の破局を歌った「Regra Três (三角定規)」、トム・ジョビンへのオマージュである「Carta ao Tom 74(トムへの手紙)」、「O Velho e a Flor」、「Cotidiano」、「A Tonga da Mironga do Kabulete」、「Samba da Volta 」など、数え上げればきりがない。

トッキーニョはほかにも多くのアーティストと共作しており、ジョルジ・ベンジョールとの「Que Maravilha」、シコ・ブアルキとの「Lua Cheia」、「Samba de Orly」、「Samba pra Vinícius」、作曲家ムチーニョとは「 Escravo da Alegria 」などがある。

共演した女性歌手にはマリア・クレウザ、マリア・ベターニア、ミウシャ、ジャニ・ドゥボックやイタリア人女性シンガー、オルネッラ・ヴァノーニなどがいる。

86年の初来日では、サックス奏者の渡辺貞夫と共演(ライブの模様はアルバム『Vamos Juntos』(86)収録)。98年にはパウリーニョ・ダ・ヴィオラと共に、アルバム『Sinal Aberto』をリリースし話題を呼んだ。2000年に入ると自伝DVD『Toquinho』をリリース、2003年には久しぶりのスタジオ録音となったソロアルバム『Só Tenho Tempo pra Ser Feliz』を発表。リオのコンサートホール、カネカォンで行われた同アルバムのライブはDVDがリリースされている。

ソロ、共作を合わせて70枚以上のアルバムをリリースしているトッキーニョは、2005年に入り、キャリア40周年を祝ったツアーをスタート。南米やヨーロッパを精力的に回った。

トッキーニョはギター&ヴォイスの独創的な世界を作り出したブラジルが誇るアーティストである。



ヴィニシウスへのサンバ / ヴィニシウス=トッキーニョ

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リオのそよ風~ブラジリアン ニュー サン
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Posted by pokebras at 17:49Comments(0)TrackBack(0)mpb, bossa nova

2007年09月11日

Jorge Ben Jor

ジョルジ・ベンジョール~ 生粋のファンキー・マランドロ

ジョルジ・ベンジョールは独特で最高のリズムを叩くサンビスタ、バンド・リーダー、ファンクマン。形破りなサウンドは自身が「サンバとマラカトゥの混ざり合い」と言うとおり、都会的なサンバにもう一度アフロ・リズムをかけ合わせた魔法のビートがベースである。そのつかみどころの無さはリオの"いかがわしいダンディたち"、マランドロの末裔と呼ぶにふさわしい。

1942年リオデジャネイロ生まれ。ジョアン・ジルベルトとリトル・リチャードを敬愛するという彼のギター・リズムはあまりにも独創的で、60年代前半に出現したときは他のミュージシャンが彼のリズムに付いていけなかったといわれる。彼はまさにブラジリアン・ブラック・ミュージック(サンバ・ソウル)を先駆けた天才なのである。

デビュー以来、彼の音楽はジャンルや時代を問わず、数え切れないほどのアーティストたちを刺激し続けている。1963年のデビュー曲「Mas Que Nada」は、セルジオ・メンデスがカバーしアメリカで大ヒットさせたことで、エラ・フィッツジェラルド、ディジー・ガレスピー、フリオ・イグレシアス、ホセ・フェリシアノといった世界的スターたちもこぞってカバーした。

エリス・ヘジーナは「Zazueira」を、ウィルソン・シモナル、イヴァン・リンス、ダニエラ・メルクリやパウリーニョ・モスカらは「País Tropical」を歌う。ガル・コスタの「Que Pena」はあまりにも有名だ。

カエターノ・ヴェローゾやフェルナンダ・アブレウ、ハシオナイスMCは「Jorge de Capadocia」を、イヴェッチ・サンガーロやレイラ・ピニェイロは「Por Causa de Você Menina」をカバー。トッキーニョとの共作「Que Maravilha」もマリア・クレウザやヴィニシウス・ヂ・モラエスが歌っている。 マックス・カバレラ(ソウルフライ)やアンビシャス・ラバーズは「Umbabarauma」を、マリーザ・モンチも「Balanca Pema」、「Cinco Minutos」をカバーした。

他にも数え切れないほどのアーティストがベンジョールの曲を取り上げているが、サンバ、アシェー、フォホー、レゲエ、ロック、ヘヴィーメタル、ソウル、ラップといった、世界中のありとあらゆるジャンル、アーティストたちにカバーされる驚異の存在である。

アルバム・リリースは30枚以上、来日公演は2度(72、92年)行っている。最新アルバムは9年ぶりのスタジオ録音作品の『Reactivus Amor Est(愛こそすべて)』(04)。このアルバムの収録曲「Mexe Mexe」は、サッカーの"王様"ペレのドキュメンタリー映画『Pelé Eterno(永遠のペレ)』(04)のテーマ曲に使われた。

彼の代表曲「País Tropical」の歌詞にこんなフレーズがある。「俺のいる国は暑くて、自然が超キレイで、神様が手を広げているんだ。2月にはカーニバルがあるぜ。俺の持ち物はオンボロ・ビートルとギター1本。好きなチームはフラメンゴ、彼女の名前はテレーザだ」。
彼を象徴する最高の言葉かもしれない。


ビッグ・ベン / ジョルジ・ベン


フットボール&サンバ・ベスト! / ジョルジ・ベンジョール  

Posted by pokebras at 17:11Comments(0)TrackBack(0)mpb, bossa nova